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王貞治の歴史 歴史館のご案内

そこは王選手の活躍にみんなが熱くなった昭和の世界。
路地裏、駄菓子屋、お茶の間など当時を忠実に再現した空間で、
野球好きの少年が世界のホームラン王になるまでの足跡を
時代と重ね合わせながらご紹介します。

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少年時代 昭和10年〜20年

1940年5月10日、東京都墨田区で中華料理店を営む両親の下、二卵性双生児として生まれた(戸籍上の誕生日は5月20日になっている)。双子の一人、廣子は生後1年3ヶ月、重いはしかにかかり、小さな命を散らせた。2歳になるまで歩けないほどひ弱だった王は、姉の死後、姉の命をもらったかのように元気になり、成長した。
王の父、仕福は中国・浙江省の生まれ。日本に仕事を探しにやってきて、苦労に苦労を重ねた末に、東京都墨田区吾嬬町に中華料理店「五十番」を開いた。仕福は貞治を「祖国の役に立てるように」と、電気技師にしたかったという。「日本に来て、日本の方には本当にお世話になった。皆さんのお役に立て。」という父の教えを受けて、貞治は育った。
王の母・登美は富山県の出身。仕福が東京で働いていた時に知り合い、結婚。「貞治」の名前は登美が入院中に読んだ本、「出世物語」の主人公から取った。登美は双子のもう1人、廣子を失った時、棺の中に硬貨を入れて「あなたの弟は体が弱い。いい薬を買ってきてね」と祈り、貞治を裸で日光浴させて育てた。
王が初めて野球を体験したのは、墨田区立業平小学校4年の時。慶大医学部で野球の同好会を作っていた兄・鉄城に連れて行かれた合宿で、初めて軟式野球に触れる。それ以来、クラスで野球チームを作るなど、野球のとりこになった。区の少年野球大会では優勝投手にもなるなど、少年の名前は次第に区内で有名になっていった
中学に入って町の野球チーム「厩四ケープハーツ」に入った。チームのエースで5番打者だった。本所中学校2年の時、たまたま散歩に来ていた毎日オリオンズの荒川博氏が、左投げなのに右打席に立つ王に「左で打てば?」とアドバイスをする。左打者・王貞治の誕生である。世界に名をとどろかすホームラン打者の野球人生が、大きく動き出す。
スランプ脱出などの参考にするため、高校時代から新聞の切り抜きをしていた。いつも弟の活躍を応援していた姉の順子は、お店の手伝いをしながらこのスクラップブックづくりを手伝ってきた。入団前後から引退まで、休むことなく作られ続けたスクラップブックには、家族の愛も詰まっている。
昭和15年
王貞治誕生
父の教え
母の愛情
昭和25年
初めての野球
昭和25年
荒川博氏と出会う
スクラップブック
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昭和31年
高校時代の活躍
昭和33年
巨人軍入団
昭和35年
ON砲の誕生
苦悩する3年間
昭和37年
1本足打法の誕生
昭和39年
王シフトの誕生
昭和46年
日本シリーズで山田から逆転本塁打
昭和48・49年
2年連続三冠王を獲得
高校野球の名門、早稲田実業に入学後すぐに、投手で5番打者に抜てきされた。2年生の春の甲子園大会にはエースとして出場。しかし、学期末試験で2週間もボールを握っていなかったため、大会直前に左手人差し指と中指に血マメができ、破れた。だが、左手を鮮血に染めながら、4試合を投げ抜き、見事に優勝、全国制覇を果たす。
阪神入りがほぼ決まりかけていた王を巨人が土壇場で逆転。王は希望だった巨人入りを果たした。「王君の王は中国語でワンと発音するし、何事にも一番になれという願いを込めました」と品川球団社長から渡されたユニホームの背番号は、その前年まで南村が付けていた「1」。「ビック1伝説」がスタートする。
入団2年目の1960年、王は初めて3番に座る。4番はもちろん長嶋だ。その後15年間も続くことになるON砲の誕生だ。常に2人で打撃のタイトルを争う宿命のライバルであり、頼もしいチームメイトであり、心から信頼しあえる同志。通算106本のアベックホームランを数える、世界でも例を見ない3、4番打者だ。
プロ2年目の三振数は101個。3年目が72個。打席に立つと「オー、オー、三振王」のヤジが飛んだ。思うように上がらない打率。次から次へと凡打の山を築く。左投手の時には代打を送られることもあった。「こんなはずはない…」王は目の前に大きく立ちはだかったプロの壁に悩んでいた
プロ4年目、スランプに悩む王に救世主が現れる。中学生の王を左打者にした恩人、荒川博との再会だ。巨人の打撃コーチに招かれた荒川は、バットの始動が遅い王に、1本足打法を提案。1962年7月1日大洋戦。ぶっつけ本番の打法でこの試合に臨んだ王は2打席目、右翼席にアーチを描くなど3安打。一本足打法の開眼だった。
1964年5月3日の阪神戦で4打席連続ホーマーの快記録を樹立したその2日後の広島戦、広島の白石勝巳監督が東洋工業のコンピーターを駆使して王の打球方向を分析、”王シフト”を編み出した。王のバッティングをかく乱するためのシフトでもあったが、それでも王は自身のスタイルを変えることなく、右翼席にホームランを量産し続けた。
1971年、阪急との日本シリーズ。1勝1敗で迎えた第3戦、敗色濃厚の巨人を救ったのは、この年スランプで悩み続けた王のバットだった。山田に9回まで完璧に抑えられ、完封負け寸前の9回2死一、二塁、低めのボールを捕らえた打球は歓喜に爆発する右翼席に飛び込んだ。シリーズの行方を決めた王の一発で、この年、巨人はV7を達成した。
1973年、74年、2年連続の三冠王を達成。ミスター・長嶋が現役最後の年で、他球団のマークが王に集中する中での偉業だった。特に本塁打は阪神の田渕とデッドヒートを演じ、残り21試合で4本差をつけられたのを逆転し、キングを奪取。この年、通算本塁打は634本。王は次の目標を、ベーブ・ルースの714本に定める。
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ホームランに湧いた
あの時代

高度経済成長とプロ野球の隆盛が重なった。王がホームランを打つ度に、お茶の間が、日本中が沸いた。テレビに釘付けになった。ベーブルースのホームラン記録を抜くのも、もう夢ではなくなった。世界に追いつけ追い越せ。時代が、日本の未来が、王の活躍とともにあった。

昭和の街並み

「中華五十番」ののれんをくぐると、昭和の街並みが広がる。
お父さんには懐かしく、こどもには新鮮な空間。
路地裏、駄菓子屋、お茶の間の風景、テレビから流れるCMまで当時を細かに再現。

駄菓子屋
「富士見商店」

懐かしの駄菓子に囲まれたスクリーンにて、1963年に放映された王さん出演の亀屋万年堂の「ナポナ」のCMや王さんがイメージキャラクターとして出演した「リポビタンD」のCMなどの映像を展示。

応援するお茶の間

ついに700号達成。日本中が熱狂し始めた。
ベーブ・ルースを超えるのもハンク・アーロンに追いつくのももう、時間の問題だ。
そしてベーブ・ルースを超える日。昭和51年10月11日、5打席目。フルカウントからのシュートを王は振り抜いた。

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1959年4月26日の国鉄戦(後楽園)。開幕から26打席ノーヒットの不振の後、村田のカーブを打ったプロ入り初ヒットがホームラン。いかにもホームラン打者らしい派手な船出だ。高く舞い上がった打球は右翼席ギリギリに飛び込み、「雲の上を走っているような感じだった」。夢見心地で4つのベースを回った。
1964年9月6日の大洋戦(川崎)の6回。峰から右中間にライナーで運んだ53号は、野村克也(南海)が持っていた52本のシーズン最多本塁打を破る記念すべきアーチ。このシーズン55ホーマー。その後40年以上、いまだに破られていない大記録だ。
王にとって「生涯忘れられない3本のホームラン」のうちの1本。1971年9月15日の阪神戦(甲子園)。0-2と敗色濃厚の9回2死二、三塁。それまで3三振に抑えられていた江夏から右翼ラッキーゾーンへ逆転の3ラン。二塁ベースを回る王の目に涙が浮かんでいるのを、ぼう然と立ち尽くしていたマウンドから、江夏は確かに見た。
1976年10月11日の阪神戦の8回、前日にベーブ・ルースの714号に並んでいた王は山本(和)から右翼ポールに当てるアーチ。ついにルースを抜き去り、“世界で2番目の男”になった。だが、このホームランも王にとっては通過点に過ぎなかった。次のターゲットは、ハンク・アーロンのもつ755号だ。
1977年9月3日午後7時10分6秒。歴史は作られた。後楽園球場のヤクルト戦の3回。右翼席に弾丸ライナーが突き刺さった。一瞬の静寂のあと、スタンドに大歓声が沸き上がった。ついに世界の頂点に立った。ハンク・アーロンを超え、今なお燦然と光を放つ756号。さあ、これからは未知への挑戦だ。
1980年10月12日のヤクルト戦(後楽園)で神部からこのシーズン30本目となるアーチ。19年連続30号を達成したが、シーズン終了後に現役引退を表明。結果的に、このアーチが生涯最後のホームランになった。22年間の現役生活で、868ホーマー。大リーグにも例がない不滅の大記録だ。
ホームランシアター
世界新記録756号を達成した昭和52年9月3日の後楽園球場を再現!ダイナミックなスクリーンで達成の瞬間を15分毎に上映中。
国民栄誉賞*を受賞
ホームラン756号の世界新記録達成の偉業が称えられ、1977年、当時の福田赳夫首相から初の国民栄誉賞が授与された。
「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」として創設された賞。<もどる
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756号、ついに王は世界新記録を樹立!新聞やニュースや街角の話題は、この記録で持ちきり。その偉業を、日本の誰もが、そして世界が祝福してくれた。自らのホームラン記録を抜かれハンク・アーロンは、一本足打法の美しフォームにちなんだフラミンゴの剥製を贈り、大記録を讃えた。
1980年10月12日のヤクルト戦で30号を放ち、19年連続30号の大記録を作ったにもかかわらず、シーズン終了後「王貞治のバッティングが出来なくなった」と、22年間の現役生活にピリオドを打った。
引退セレモニーでは、左打席にバットを、一塁ベースにミットを置いた。世界のホームラン王の最後の勇姿にファンは惜別の声を送った。
現役引退後、3年間の助監督を経て、1984年に巨人軍の監督に就任。在任5年間でリーグ優勝1回、Bクラスなしの好成績を残した。しかし、「強くあらねばならない」常勝巨人軍の宿命の悲しさか、日本一の座につけなかったことを理由に、30年間着続けた巨人のユニフォームをいさぎよく脱いだ。
1995年、福岡ダイエーホークスの監督に就任。万年Bクラスチームの「負け癖」を一掃することから新しい仕事は始まった。就任5年目で初のリーグ優勝、そして2度の日本一。トレードとFAで秋山、工藤ら勝ち味を知った選手を加え、松中、城島、川崎ら地元出身選手をドラフトで入団させるなど、新旧の組みわせによって、王が描いた理想のチーム作りの夢は結実した。
ダイエーホークスからソフトバンクホークスへと球団名は変わっても、王の目指す野球は不変だ。常に勝利を求め、挑戦し続けるチームを作り続けた。その後、がんに冒され、胃を全摘する大手術も受け、戦線から離脱したが半年後には現場に復帰した。
"不死身の王"は、常にグラウンドに立ち続けた。
王と世界との関わりは、世界新記録に挑戦し続けた現役時代、日米野球や海外キャンプ、大リーグ表彰やメジャー選手との交流などが中心。選手引退後は、ハンク・アーロンとのWCBF(財団法人世界少年野球推進財団)設立や他国との野球交流を深めるなどした。監督復帰後は、周知の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)優勝など、その活躍はいつの時代も世界の注目を集めている。
道は続く
上り坂も、回り道もあった。
いくつも別れも経験した。
でも常に、歓びと、ときめきにあふれていた。
野球。僕が歩みを止めても、
この道はずっと続いていく。
昭和52年
756号の栄光
昭和55年
選手引退 22年分のありがとう
昭和59年
巨人軍監督 栄光と苦悩
平成7年
ダイエーホークス監督 福岡からの再出発
平成17年
ソフトバンクホークス監督 常勝軍団のきらめき
世界から見た王貞治
平成20年
監督勇退 道は続く
王貞治 略歴

生年月日 1940年5月20日

身長・体重 177cm・79kg

投打 左投左打

出身地 東京

球歴 早稲田実高

‘59~‘88 巨人

‘95~‘04 ダイエー

‘05~‘08 ソフトバンク

1940年5月20日、東京府墨田区で中華料理店を営む両親の下、二卵性双生児として生まれた。
早稲田実業に在学した高校時代では、甲子園でノーヒットノーランを達成するなど、プロの注目を集めた。
希望だった巨人に入団(背番号1)。入団後3年間はプロの厚いカベに悩み「三振“王”」などと野次を飛ばされたりしたものの、4年目に荒川博氏との再会により「一本足打法」のスタイルを見つけた。
その後はホームランを打ち続け、756号で世界新記録を樹立し、868号まで記録を伸ばした。
世界新記録達成の偉業が称えられ、当時の福田赳夫首相から初の『国民栄誉賞』を授与された。
また、ON砲として長嶋選手と一緒に時代を彩る数々のホームランや名勝負を生み出した。

選手引退後は、巨人監督を5年務め、ダイエー、ソフトバンクとホークスの監督として14年間采配を奮った。また、第1回ワールド・ベースボール・クラシックでも監督に就任し、初代王者の栄冠を掴んだ。
現在も『大好きな 野球』のために各方面で活躍中。